九州原告の想い~被害の実態と伝えたい想い~

梅本邦子さん、梅本美有さん、九州訴訟・原告番号6番さん、九州訴訟・原告番号8番さん、九州訴訟・原告番号10番さん、九州訴訟・原告さん

2022/09/17学習会「提訴から6年の今とこれからを学ぶ」にて

九州原告団 代表 梅本 邦子さん 

 「裁判による救済への道」

 

みなさん、こんにちは。

この薬害裁判が始まってもう6年が経ってしまいました。被害に遭った原告やその家族は、実際の経過時間よりも、もっともっと長く感じていると思います。提訴した時、娘は18歳でした。高校3年生ですが入学した時の学校とは違う学校に通っていました。多くの被害者がそうだったように、娘もHPVワクチン接種後から体調を酷く崩し学校に通うことができませんでした。そのうえ、様々な症状に対して学校の理解が全くと言っていいほどなく、辞めざるを得なかったからです。頑張って入った学校だったので、あの頃の娘の悔しさを思うと今でも胸が締め付けられます。

そんな未成年の子どもたちが薬害裁判の原告となったのがこのHPVワクチン薬害訴訟です。裁判の詳細などはこの後の水口弁護士が詳しく話してくださいますので、私からは原告として家族として、どういう思いでこの裁判に臨んでいるのかをお話ししようと思います。

 

娘がこのHPVワクチンを接種したのが中学3年生から高校1年にかけてでした。接種後から体調がどんどん悪くなりましたが、受診したいくつもの病院では「検査の結果に異状はありません。」や「ストレスからくるものでしょう。」や「これ以上は何も分かりません。」ばかりでした。日に日に悪くなっていく娘、治療の手立てがない病院、まったく先の見えない状況に底知れない不安を抱える毎日でした。

朝起き上がることが出来ない娘を家に一人で寝かせたまま仕事に行っていましたが、気が付くといつの間にか職場に着いていて、どうやって家を出て職場に着いたのか、分からないことが度々ありました。私の頭の中は、恐怖と不安と焦りと孤独が占領していました。

 

その頃、何度も行政に助けを求めましたが、まともに聞いてもらえませんでした。私の姿が見えると奥に座っている人がサッと窓口にきて、また面倒くさい人が来た、という空気をありありと出していました。病院では厚労省に副反応報告を提出してほしいと頼んだ時、受診した医師ではない医師から私の携帯電話に折り返しの電話があり、「副反応の証拠がないのに副反応報告などするものか!」と相当に激しい口調で言われたこともありました。

ある日、仕事中に娘から「お腹が痛くて死にそう」と消え入りそうな声で電話がありました。ただ事ではない様子に、職場から119番に電話し救急搬送してもらいました。私は職場から運びこまれた病院に駆けつけました。駆けつけた時、娘の顔には血の気がなく真っ白で、痛み止めの麻酔で眠っていました。

病院の医師にHPVワクチンを接種してから体のいたるところが痛くなる事を話すと、点滴が終わったらお帰りくださいと言われました。こんな状況でも何もしてもらえないのかと絶望しました。

娘の体調が悪くなってきたとき「全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会」という患者会に登録し情報を共有してきました。私の住む福岡県にも多数の被害者がいることから福岡県支部を設立し、私は支部の代表として県内の複数の被害者家族と連絡を取り合いました。どの被害者の話を聞いても、健康被害の症状や、学校に通えなくなった事や、医療機関で診てもらえない事、行政に相談しても何もできない事など、驚くほど似た状況でした。それは福岡県だけではなく、患者会の各地域でも同じような状況でした。夜になると毎日といっていいほど相談の電話がかかってきて1~2時間は話を聞いていました。

 

これまで何度も厚労省に相談の電話や直に救済のお願いに行っていましたが、健康被害とHPVワクチンとの関連性はないとして取り合おうとしてくれません。製薬企業もそうです。自社の製造したHPVワクチンに副反応はないとして健康被害を訴えている私たちと話すことすら拒否していました。

 

私たちは、もう裁判を起こして娘たちを助けてもうらうしかないと考え、提訴の1年前から弁護士の先生方と被害者家族とで何度も何度も話し合いを重ねました。当然、当事者である娘や家族とも裁判をするべきかどうかを話し合いました。

私たち家族は裁判に前向きでした。国も製薬企業も被害者を無視し続けていて、このままでは時間だけが過ぎていき、娘の体が元に戻らないかもしれないと考えていたからです。裁判による法的責任で、今の医療では説明のつかない症状の治療のための研究をしてほしいのです。就学期に被害に遭った子どもたちの成長にあった支援をしてもらいたのです。気持ちの持ちようやストレスからくる症や、怠けたりサボりたいための仮病なんかではなく、『HPVワクチンによる健康被害の症状』だと世間に知ってもらいたいのです。そしてこれ以上同じような苦しみを味合う人が一人も出ないようにしたいのです。

いま原告として裁判に加わっている人は129名(※現在)いますが、それぞれの事情で裁判に加わっていない被害者が何百人といます。裁判によってそんな被害者へも救済の道がひらけるのです。わたしはその道を作りたいし、作るのは私たちの役目だと考えて裁判に臨んでいます。時間のかかる裁判だということは娘ともども覚悟していたことです。法廷内の戦いでは九州訴訟の弁護団はじめ、各地の弁護団に全幅の信頼を置いています。もしこの弁護団で負けることがあったなら、日本にはもう正義はないということでしょう。

 

でも弁護団・原告団が頑張るだけでは到底この裁判は勝つことはできません。この裁判を色んな方面でささえてくれる支援者さんの存在はとてつもなく大きいです。気持ちのうえはもちろんですが、支援者活動により被害が周知され、世論を大きく動かしていきます。各地にある支援団体のパワーが後押ししてくれるから原告は頑張れています。

自分がその立場になって実感できたのですが、応援のパワーは強大です。裁判の重要な局面にさしかかる今後、そのパワーで原告たちを応援してください。これから応援に加わりたいという方のお力もまだまだ必要です。どうぞ私たちに力を分けてください。

 

そして辛い体でも被害を伝え続けている原告や被害者のみなさんが自分の被害を訴え続けることが何より必要です。裁判が始まって間もないころ、水口弁護士が「どんな優秀な弁護士でも被害を伝えることはできない、それはあなたたちにしかできないのよ」と仰いました。裁判が続いていくなか、その言葉の本当の意味が分かってきました。被害にあった本人にしか出来ない、その『被害を話すこと』がこの裁判で一番重要な事です。大変なことは百も承知していますが、やり抜くしかありません。

これからも頑張っていきましょう!本日はありがとうございました。

 

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2022/01/22 「HPVワクチン薬害訴訟の経緯と今を学ぶ」

 九州訴訟 原告番号 8番 「九州原告の思い」

 

こんにちは。原告番号8番の母です。長崎県の佐世保市に住んでいます。昨日の大分の地震を心配しております。娘は体調が優れなくて私がお話しさせていただきますが、人前で話すことがとても苦手なので、お聞き苦しい点もあるかと思いますが、皆様に知って頂きたいと思い、話をさせて頂きますので、どうぞよろしくお願いします。

 

 娘は22歳です。通信制の大学3年生です。9年前、中学1年生の時にガーダシルを接種しました。部活や習い事をしていたので、その間をぬって接種日を調整しました。

 先ほど、前田弁護士が説明の中で、裁判の争点の一つが、悩みなどを持っていたからと言われていたのですけれど、その中1の時は娘も友達が増えたりとか、部活のバドミントンでは1年生なのに団体戦のメンバーに選ばれたりとか、これからの学校生活に希望に満ち溢れていてキラキラしている時だったのです。だから、被告がそういうことを言うというのはとても悔しく思います。

 8月と10月に2回接種をしたのですが、10月の2回目の接種の翌日に倦怠感があって、食欲がありませんでした。でも、いつも元気な子だったので、風邪でもひいたかなーぐらいに軽く考えていました。その次の日は具合が悪いと言って学校を早退してきました。接種から3日後の土曜日は部活で、練習試合で他校に行っていたのですが、10月なのに寒い寒いと言って友達の上着を雪だるまのように着せてもらっていたそうです。私が帰宅したときは、『どうやって帰ってきたかも覚えてない。』と言って、ソファーに横たわっていました。

 

 その後、ひどい頭痛と過呼吸を起こして、夜間診療所に連れて行って、ワクチン接種を2時前にしましたって伝えたところ、検査入院となりました。検査は血液検査とか何も異常がでなくて5日ほどで退院しました。タクシーで帰って、家まで歩いている時に歩けなくなって、壁を伝いながら家まで帰りました。その後また病院に行って検査もしたのですが異常はないとのことで、学校に通学する時は1時間前に車で私が送迎して教室まで何十分もかけて通学していました。

 

 そのころから、娘の体にはいろんな症状が出てきました。筋力はあるのに歩行困難で歩幅が数センチしかないような状態になりました。階段も上がれないので、学校では私が膝の後ろを手で押して階段を上るようにしていました。そういう事を病院で言ってもどの先生も診察室で見るばかりで階段を上る姿とかを見てくれる先生はいらっしゃいませんでした。接種した病院の先生にもちょっと相談に行ったのですが、『ワクチンの会社の担当者に話したけれどそんなことはないと言われた。学校に行きたくないから歩いてないんだろう。夜は歩いているだろう。』みたいなことを言われました。

 

 そうこうしているうちに1日16時間眠り続ける過眠症のような状態になりました。夜12時に寝て夕方4時頃起きてくる。起こしても起こしても起きません。トイレにも行きません。毎朝、私は学校に電話をするんです。「あの今日も起きたら学校に行きます」って電話をするのですが、結局夕方起きるので学校に行けないような状態でした。病院から診断名が出ないので、学校は病欠扱いにはしてくださいませんでした。中2の時は、校長先生に呼ばれて3年生に進級する意思があるのかっていう面談を受けました。3年生もほとんど学校に出られなくて、高校受験の第二志望の最初の滑り止めの受験の日も起きることができず、夕方に泣きながら起きてきました。それを知った部活の顧問の先生が志望校は絶対起きないといけないということで、起こす練習にも来てくださってなんとか受験することができました。その顧問の先生はとっても怖い先生なのですが、どんなに起こしてもなかなか起きない娘に心底驚かれていたのをよく覚えています。先生も実際に起こしに来てみて、甘やかしで起きられないと言っているわけではないっていうことを実感されたのだと思います。

 

 起きられないので夜間高校を勧めたのですが、本人が昼間部に行くと受験し、頑張って進学したのですが、無理がたたって出席日数が足りなくなり、1年生の12月に退学、翌年通信制の高校に入学し直しました。通信制とはいえ受講する授業も多く苦労して単位を取っていました。1年生の終わり頃から握力がなくなったり、眩しさでサングラスをかけて授業を受けたりしながら生活していました。不随意運動がその頃頻発するようになりました。不随運動では1日に5回救急搬送されたことがあります。救急搬送の時は当直の先生が対応されるので、『子宮頸がんワクチンの副反応は心身の反応だと言われていることは知っていますね。痙攣止めではなく生理食塩水を点滴します。それで止まれば副反応ではないということですよ。』と、生理食塩水を点滴されたこともあります。30分以上経っても治らない娘を見て、『止まりませんね。薬を点滴します。』と、5年通い続けたような病院でもそういった扱いを受けました。

 

 今の主治医の先生は、娘の症状は本当に診ている人でないとわからないと言われます。文献とかそういう書類とかで診るだけではわからないということを言われます。接種から5年ほど経って今までと違う症状がどんどん現れだしたので、HPVワクチン薬害訴訟の仲間たちが多く受診されている 鹿児島大学病院を受診しました。余談ですが、中学2年の時に佐世保市役所から、国が専門機関を設置したので行かれてくださいと、九州大学病院を受診した事があるんですが、そこでは何もできない、治療方法が見つかったら主治医の先生から紹介状を書いてもらって、こちらで診るようにしますと言われただけでした。その時には、鬱のテストも受けさせられたのですが、『お母さん、鬱じゃないよ。』と先生があっさりと言われました。この病院にはその後は行っていません。

 

鹿児島大学病院では、『子宮頸がんワクチンを打った後の症状のある子をたくさん診てきました。頑張って一緒に治していきましょう。』と言われ、今までこんなに希望のある言葉を聞いたことはないくらい嬉しかったことを覚えています。

 3回目の入院の時に車椅子で病院へ行ったのに、3週間後退院の時には車椅子に荷物を乗せて娘は歩いて退院することができたのでとても嬉しかったです。でも、退院時にこの状態がいつまで持つかはわからないと言われました。その後がんばって通信制の大学に行くようになりました。本人は進学したのは体力的にも仕事をやっていく自信がないから通信制で勉強して、家で仕事ができるスキルを身につけたいと言っています。体調にいくらか波はあるものの勉強しながら週2、3日座ってできるアルバイトもできるまでになっていました。

 ところが、鹿児島で治療して3年。去年の2月に握力がなくなり何も持てなくなりました。2週間ほどで握力は戻りましたが、その後足の不調や倦怠感、息苦しさと食事を噛むことができない。今、食べることがあまりできない状態で、娘は食べたい物リストを作っているのですけれど、焼肉とかお寿司とか、あとバーバのおにぎりっていうのが書いてあって、おにぎりも食べられないっていうのがすごいなあと思いました。

 

 一気にいろんな症状が現れたので、去年の2月からほぼベッドの上で過ごしています。椅子に座っても頭が支えられないので、クッションを当てたり、自力で立つことができなくてトイレに行くのもキャスター付きの椅子で移動したりしています。トイレに行った後、ベッドに戻ると疲れ果ててしまっています。息苦しさもあり、お風呂に入ることもできません。エアコンの風も苦しがります。コロナ禍で鹿児島大学病院への入院がずっと制限されていたのですが、今入院待ちの状態です。それなので地元の先生も今ここで出来ることをと力を尽くしてくださっています。鹿児島でするその免疫吸着療法っていうのは、佐世保ですると自費ですることになると言われるので、鹿児島に行かないと出来ないという状態です。

 

 接種から9年も経っているのに、そして3年間調子が良かったのに、まだこのような状態があるっていうのがやり場のない気持ち、憤りを感じています。この先どうなるのかと考えると、とても不安になります。次女、娘の妹なのですけれど、一昨年結婚して去年子供を産んだんですね。その時に娘が、私は結婚も出産もできないんだろうなぁと言った時に、かける言葉がありませんでした。今が一番年頃なのに恋愛もできずにいるっていうのがとても辛く感じます 。治療法とか、公的扶助も確立していないのに、被害を見て見ぬふりをしてワクチン接種を再開させた国や企業に怒りを覚えます。

 子供達の未来のために、これからもご支援を宜しくお願い致します。以上です。

 

 

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2021/10/03学習会報告『HPVワクチン接種のほんとうのこと』  

九州訴訟原告さん 『原告からの訴え』 

 

みなさま、こんにちは! 本日のご参加ありがとうございます。また、このような学習会を開催していただきました、大分の支える会の皆様、本当にありがとうございます。

 

私は福岡県在住の友野と申します。娘は現在24歳になりました。娘は中学2年生の時にサーバリックスを3回接種しました。接種前は健康体そのものでしたが、3回目接触後、接種部位に腫れと痛みがあり、1週間ほど腕が上がらなくなり、それが少し落ち着いた頃から、鼻血がよくでるようになり、1 回の出血でティッシュが 1 箱無くなる程大量に出血したりするほど異常なものでした。その後は坂道を転がるように体調が悪化していきました。

 

中3の冬頃には、24時間止まらない頭痛、それに加えて腹痛、立ちくらみ、朝起きるのが辛くなるなど、その頃には 300mしかない通学路を、毎日車で送迎し、授業中も痛みや倦怠感などで机に伏せたままとなり、まともに授業が受けられなくなっていました。

 

その後、何とか地元の高校に進学しました。この頃の私たち親子は無知で、これが HPV ワクチン接種による副反応だとは、受診した医師も含め気が付いていませんでした。一向に回復する兆しもないため、沢山の病院を受診し、いろいろな薬を試しましたが、回復する事はありませんでした。

 

その後、慢性疲労症候群と診断され、九州大学病院を受診することになりました。そこで、やっと HPV ワクチン接種による副反応だと分かりました。既にその時は3回目の接種から、2 年半という月日が経っていました。

 

その時娘はもう高校2年生になっていました。更に悪化していく身体に、娘は必死で耐えていましたが、もう限界で、楽しみにしていた修学旅行にも行けず、とうとう高校2年生の3月で退学することにしました。

 

その後、通院時の身体的負担軽減のため、自宅から近い、協力医療機関にもなっている佐賀大学病院に転院しましたが、そこでは医師から「私の言うことを聞いて、認知行動療法をやれば必ず治る」と言われ、娘の症状は心因的なものだと高圧的な言葉に、親子共に大変傷つきました。医師の指示通りにチャレンジしましたが、回復することはなく、この頃から更に悪化し、車椅子が必要になるようになっていきました。

そこで、以前から HPV ワクチン接種による副反応の患者を多く診ているときいていた、鹿児島大学病院へ転院することにしました。鹿児島大学病院を初めて受診した時には、既に 30 以上の症状が出ていました。

 

今は、ベット上での生活が多くなりましたが、鹿児島大学病院での治療のおかげで、記憶障害や 24 時間続いていた頭痛も軽減されました。しかし、いまだに 1 日 40 錠以上の薬がないと、硬直や痛みによる失神があり、現在も鹿児島大学病院を受診していますが、残念ながら現在はコロナの影響で入院出来なくなってしまいました。本当に 1 日も早い原因の究明と治療法の確立を願う毎日です。

 

ここまで、娘の発症からをお話しさせていただきましたが、この子宮頸がんワクチン接種による副反応被害者は娘本人だけではありません。ここからは、被害者家族についてお話しさせていただきたいと思います。

 

今から手紙を読みますが、これは 2020.1.19 の第 14 回期日に初めて入院のため参加出来なかった報告集会で娘からのサプライズで弁護士の方が読んでいただいたものです。

 

裁判手紙(2020/1/19)

今日は私達の為に色々な場所からご参加くださりありがとうございます。

 

私は今、鹿児島大学病院で治療を受けている最中でこの場に来れませんでした。月日が経つのは早いもので、裁判も入院治療も、そして年齢も何度も重ねました。成人もし、社会の 1人となりました。しかし後ろを振り返ってみれば自分や家族の辛さなどしか私の記憶には残っていません。そして悔しく悲しい事に何も前には進んでいません。ただ時間だけが先にどんどん進んでいくだけで、気付けばいつの間にか私は 23 歳になります。当たり前のことですが、家族、周りの人全員が歳をとります。その中で先日、副反応被害者のお母様が亡くなられたと訃報を聞きました。自分の体調不良を感じていながらも、娘さんを優先し、自分の事には手が回らずギリギリまで病院に行かず、耐えきれず病院に行かれたら即入院そして数日で亡くなられたそうです。私はその話を聞き、連日色んなことを考えました。そしてこの手紙を書くこと、大勢の前で話していいものか病室のベットの上で1人とてもとても悩みました。でも、それでも大勢の人に知って欲しくこのような形で聞いていただくことにしました。

 

被害者の親はワクチン接種後からどんどん体調が悪くなっていく娘を1番近くで見てきています。原因不明と言われれば色んな病院を渡り歩き、詐病だとも言われ心をズタズタにされたり、原因が分かれば治療ができる病院に遠くても連れていき、家に帰ればご飯を作り、洗濯掃除、介助や見守り、娘の治療費、自分達の生活費のための仕事など、言い出せばキリがない程漠大な負担を背負い、どれだけ親は娘の為に自分の身体に鞭を打って酷使してるのか。どこの家庭でも同じような事が起きています。親の楽しみであっただろう子供の成長や成人、手がかからなくなったら趣味など色々な事がやれたでしょう。しかし今私達は親の自由、人生すらも縛っています。先の見えない中で、昔1度、親が死ぬまで私は親を縛っておくのかと思うと、耐えきれずに、私がいなくなればみんな自由に解放され、楽に過ごせるんではないかと気が狂ったことがありました。今は頑張ってくれている家族になんということを考えたか凄く後悔し続けています。いつもみんなは私のせいでは無いと言ってくれますが、家族全ての生活が私中心で回っています。確かに私のせいではなくワクチンが原因です。ただ、私はそれでも普通だったらなと比較してしまいます。

 

自宅療養中に妹曰く父と母が口喧嘩みたいな口調になっていたそうです。後で中身を聞いたら大した喧嘩ではなかったのですが。妹はその場で聞くのが嫌で私の部屋にきました。私はそんな事を知らず、妹と何気ない話してるうちに妹がふと『ただ楽しく笑って平和に過ごしたいだけなのにね......』と言いながら涙を流していました。私は「そうだね、ごめん」としか言うことは出来ませんでした。なぜ私は何もしてないのにごめんと謝るのだろう。それでも何度もごめんねと言いました。何かあれば1人で隠れて泣く妹が、こんなに人前で泣くことを知りませんでした。しかも私の前で。その時に初めて妹も限界なんだなと思い知らされました。両親だけではなく、妹にもずっと気を遣わせ、私が生活の中で1番になっているので、とても我慢してつらい日々を送っていたと思うと、なんと声をかけていいのか、どうしていいか分からず、2人で部屋でバレないように、こっそり一緒に声を殺して沢山泣きました。妹は私のせいで嫌な事を言われたり、周りの人には姉の分も頑張れと期待され続け、長い間苦しめられ、今も苦しめられています。私も妹のようにただ笑って楽しく平和に当たり前が当たり前で過ごせれば満足なのにそれすらも叶えられません。

 

しかし、今私がこの場に居ないのは少しでも当たり前の生活ができる様ように家族が頑張って、両親がとても頑張ってくれてるからです。今回の入院時、父はいつもの様に朝5時半の電車に乗り仕事へ。母は病院まで片道250km、往復500kmを1人で運転し日帰りで送ってくれました。今回で鹿児島大学病院に入院した回数だけで15回目になりました。家族はみんな口を揃えて大丈夫気にしないでいいよと言いつつも、色んなところで無理してるのも、いつも疲れてるのも、私は何も出来ずにただ見ることしかできないので、些細な変化がわかります。だからこそ被害者家族の訃報を聞く度に、いつどこで自分の家族の限界が来るのかいつも不安になります。

 

本人が1番ツラいと言われますが、本人と同じく、もしかしたらそれ以上に家族は辛い思いをしています。頑張っているのは私だけでは無く家族全員です。スポットは毎回私達被害者本人にあたりますが、皆さんが見えていないところで家族がとても頑張ってる事を知って欲しい。今回の訃報を聞き、私は改めて家族への感謝と申し訳なさでいっぱいになりました。私自身体調が優れず、この手紙を上手く内容をまとめる事ができず、数日かけて泣きながら書き、何回も見直しては泣き、沢山の涙と時間を費やしながら、無理をしてでもこの事を沢山の人に聞いてほしいと書きました。そして、手紙を書くと共に、この今の状況でもどうにか親孝行は出来ないものなのか色々考えましたが、やはり答えは全て元気になることにしか辿りつきませんでした。

 

私達は1秒でも早く治りたいです。親孝行をしたいです。被告製薬企業の作ったワクチンのせいで副反応になり、今は副反応の症状軽減などで被告企業が作ってる他の薬を飲んで生きてる悔しさ。そして被害者、被害者家族、悔いを残して逝ってしまっただろう亡くなられた被害者の家族のためにも一刻でも早く裁判で勝利し、治療法の確立を待ってます。その為には世論を動かさなければいけません。そのためには副反応を知らない人に知ってもらう必要があります。なので是非周りの方に話して頂き広めていただきたいです。

 

どうかこの苦痛の被害者家族の事実、そして私の切実な想いを少しでも受け取って貰えると嬉しいです。これからも戦いは続きますが沢山の応援、ご支援のほどよろしくお願い致します。

 

この手紙ように、このワクチンにより、多くの被害者家族がいるのにも関わらず、一昨日(いっさくじつ)の 10 月 1 日、厚生科学審議会予防接種・ワクチン分科会副反応検討部会において、積極的勧奨の再開を妨げる要素はないというような、まとめがなされました。

 

副反応部会であるにも関わらず、委員の中には心因性のものときめつける委員や、以前からこのワクチンは打つべきだと言ってきた、というような、これが副反応部会といえるかと思うほどに、屈辱とも思える腹立たしさで一杯になりました。

 

副反応被害者のケアも救済も問題なく行われている、とも言われ、PMDAに5年間も判定不能と言われている娘の存在は何なんだろう、と何処に怒りをぶつけていいのか、と今も腹立たしい気持ちでいっぱいです。

 

このままでは、娘のように心身ともに人生を狂わされる多くの少女が出てきます。このままでは、私達のような被害者家族がたくさんでてきます。この悲劇を繰り返さない為に、どうぞみなさん、今日この場で見たこと、聞いたことを一人でも多くの方に伝えてください。

 

そして、娘たちが一日も早く元気な身体を取り戻すためにも、ご支援よろしくお願いいたします。

ありがとうございました。 

2022/09/17学習会「提訴から6年の今とこれからを学ぶ」にて

九州原告 原告番号1番  梅本 美有さん

       「責任を認めて!」

 

こんにちは。九州原告の梅本美有と申します

私は中学3年生から高校1年生の間に、HPVワクチンを3回接種しました。3回目のワクチンを接種してから足に激痛が走り出し、それから様々な症状が出るようになりました。倦怠感、皮膚の湿疹、激しい生理痛、ひどい吐き気などに悩まされながら何とか高校生活を過ごしていました。

 

 しかし、高校2年生の冬頃から体調が急激に悪化し、学校に通えなくなりました。朝起きようとしても何倍もの重力がかかったような倦怠感に襲われ、起き上がることすらできませんでした、なんとか学校には行かないといけないと思い無理やり母に起こしてもらい、着替えさせてもらって学校まで送迎してもらっていましたしかし、学校についてからも倦怠感や吐き気、頭痛などでまともに授業を受けることができません。

母が保健室登校でレポートなどで対応してくれませんかと学校に相談していたそうですが、授業があっている教室にいないと単位をあげられないと言われたそうです。それからも這うようにして学校には通っていましたが、このままでは進級はできても卒業は難しいですよね。続けるのは無理でしょうと言われ、悔しくも転校をせざるを得ませんでした。友達と一緒に卒業できなかったことは辛い記憶です。

 

 今は、障害者枠で入職したところで働いています。しかし、毎日たくさんの症状と、人より疲れやすい身体で、働くのはかなり負担になります。働き出してから体調が悪化し、半年間の休職をしてその間に入院をしました。欠勤や早退なども多く、これから先仕事を続けられるか、もう辞めなければならないかなと毎日悩み、これから先の生活に不安を抱えながら過ごしています。

 症状が出るようになって、病院も何件も受診しました、しかし精神的な問題だと決めつけられたりして、きちんと向き合ってくれる医師はほとんど居ませんでした。ワクチンを打ったことを伝えると急に態度を変える医師もいました。

 その後、複数のHPVクチン薬害被害を診ている鹿児島大学病院に入院しステロイドパルスや免疫吸着療法をしましたがあまり効果は一時的なものでした。私は毎日身体が痛くて、時には寝込んで動けなくなるほど痛くなります。あまりにも酷く、救急搬送されたこともありましたが、治療法がないので耐えるしかありませんでした。

他のたくさんの症状も対処療法しかなく、いくつもの症状を抱えながらこの10年間ずっと生活しています。

 

 国はたくさん被害者が出ているにも関わらず、思春期の心因的なものによる症状だとして、私たちに全く向き合おうとしてきませんでした。私は、国は一向に責任を取らず、このままでは泣き寝入りするしかなくなると思い、裁判に参加しました。それまでも実名顔出しで取材などを受けていましたが、国との裁判の原告になるというのは未成年の自分にはそれなりに覚悟のいることでした。

 

しかし、裁判で国や製薬会社に勝ち、責任を認めさせないとこれからの自分に未来はないということも理解していました。この裁判を通じて、国や製薬会社の態度をみて怒りに燃える事が沢山ありますが、それ以上に支援者の方の暖かく、力強い言葉も沢山頂いてきました。何としても裁判で勝利し、普通に暮らしていけるよう治療法が確立されてほしいです。

残念なことに今年の4月から積極的接種勧奨が再開されましたが、これ以上被害が増えないよう被害の実態を伝えて行けたらなと思っています。国にはHPVワクチンだけでなく、これから薬害がおこらないように薬害防止に真摯に取り組んで欲しいです。

 

 これからも被害を受けた1人として出来ることをやっていきたいと思います。今日お話を聞いて頂いた方には、知り合いに話すというちょっとした事でもご支援頂けたら有難いです。支援者の皆様、弁護士の先生方、これからもよろしくお願いいたします。

 聞いていただいてありがとうございました。

 

 

原告からの手紙 九州原告番号1番 梅本美有さん2021/08/04通信連載特集「原告からの手紙」収録

 

私は子宮頸がん(HPV)ワクチンの被害にあった一人です。

15歳のワクチンを打った直後から様々な症状が出て苦しんでいます。

耐え難い痛み、身体を動かすことができない倦怠感、ほんとうに数え切れないほどの多種多様な症状を抱えて生活してきました。

高校生の頃は半分以上まともに通学も出来ず、今まで通り学校に通えない辛さと、自分の身体はなんで動かないのかと毎日毎日考え情けなく感じる日々でした。

 

接種から8年以上経ちますが、いまだに健康な人と同じような生活はできていません。

今年から就職活動を経て何とか働いていますが、仕事中にも急に倒れそうになったり、痛みが強く激しくなる時もあります。休みも同期より多く、不安ながら働いているという現状です。

 

最初の頃は身体に現れるいくつもの症状に、自分の身体に何が起こっているのかと、とても不安でした。また、症状のみだけでなく、病院に行っても心の問題とまともに取り合ってもらえなかったり、SNSなどでは医療関係者と名乗る人達から、デマや気のせいといった心無い言葉もたくさん耳にし、攻撃されています。また、最近はコロナワクチンの副反応の件に便乗して反ワクチンと言われることもあります。何も悪いことをしていないのに、なぜこの辛い状況を自分たちのせいにされ、人格や家族まで否定されなければならないのでしょう。家族や友人、自分が同じ状況に置かれた際、果たして同じことが言えるのでしょうか。

 

私の青春時代はワクチンによってボロボロにされました。あれから長い時間が経ち、お酒が飲める歳まで成長しましたが、昔と同じように健康的な生活はできていません。しかし私は生きて、毎日を過ごしています。これから先、長い人生が待っています。その未来を人間らしく生きていくため、症状に苦しまず生活ができるよう、理不尽や偏見に負けず闘っているのです。世間の人々には私たちが受けた被害を知ってもらい、それはおかしいと声を上げてほしいと思います。もしかしたら家族や友人が被害にあったかもしれません。誰にでも起こりえた被害なのです。

また、これ以上誰にも自分たちと同じような苦しみを味わって欲しくはありません。

接種勧奨を再開する動きが高まっていますが、被害の救済が出来ておらず治療法も確立されていないため、被害が拡大するのではないかと危機感を覚えています。安全性が確立されていないまま、接種勧奨をしてはならないと思います。

しかし、話題になったのが数年前のことで、被害自体を知らない人も多くいます。私達が声をあげることで少しでも被害の実態を伝えていけたらなと思っています。

 

これからも、以前の健康な身体を取り戻し、ふつうに、人間らしく生活できるよう声を上げ闘っていきます。

 

 

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2022/01/22 「HPVワクチン薬害訴訟の経緯と今を学ぶ」

 九州訴訟 原告番号 6番 「九州原告の思い」 

 

経緯と現状

私には娘が3人おり、それぞれ24歳、23歳、高校3年生の⒙歳です。本当に思いやりのある優しい娘たちで、私たち夫婦はもちろん、おじいもおばあも皆で大切に育ててきました。

九州原告に入っているのは、重篤な副反応に遭い重い障害が出てしまった23歳の次女です。遡ること10年前に、国の緊急促進事業として勧めていた当時子宮頸がんワクチンと呼ばれていたHPVワクチンを、娘たちを子宮頸がんから守らなければという思いで長女と次女に打たせてしまいました。しかも真面目に3回もです。

 

次女は1回目2回目と接種するごとに頭痛や吐き気など症状を訴えていましたが、3回接種しなければ効果がないと言われ、続けて接種させました。3回目はとどめをさされたかのように、接種後すぐに腕の腫れと熱がでました。その後、激しい頭痛や腹痛、過呼吸や痙攣、尿失禁などたくさんの症状が次から次へと出てきました。時には、記憶障害が出て、母親である私のことを認識できず、失禁した状態で幼児のように泣き出すこともありました。症状がでる度、地元のかかりつけの小児科や内科、泌尿器科、思春期外来、救急外来など駆け回りましたが結局地元の病院では原因が分からないと言われました。不安な日々を過ごしながらいろいろと情報を調べているうち、子宮頸がんワクチン副反応ではないかと疑い始めました。私が打たせたせいで、この子は毎日痛い苦しい思いをしていると娘に対して申し訳ないという気持ちと、早く助けなければなければという気持ちに駆られ焦りました。

 

そこで沖縄県の協力医療機関である琉球大学医学部附属病院ペインクリニックを受診しました。ですが、そこでは簡単な問診で検査を何一つせず5分程度の診察で終了し、何かありましたらまた来てくださいといわれました。「いや、何かあったから来たのです。検査をお願いします」と訴えても全然話になりませんでした。私は納得できず、県外の研究班の大学病院を受診する事を決心しました。その時のことをはっきりと覚えているのですが、離島の宮古島から飛行機乗り継いで県外の病院にかかるというのは大事で、大変心配していました私の両親は田舎の年寄りですので、関東地区の大学病院に行けば1回の診察で治るものだと思い込んでおり、よれよれの字で大きく「お見舞い」と書いた現金の入った封筒を私に渡してきました。商売もしていましたが年金を合わせても収入はしれていますので、お金を私が受け取ったら両親の生活が苦しくなるのは確実でした。「大丈夫だよ、いらないよ。」と断ったのですが、「あんたにじゃない、次女にだよ。病院代の足しにして、元気になって帰ってくるんだよ。」と泣きだしたのです。もうこの子が苦しんでいる姿を見たくないと。私は娘をこんなに苦しい思いをさせただけでなく、自分の両親も泣かせて私は悪い母親で親不孝ものだと自分を責めました。

 

接種後症状がでて3年ほどが経ち、やっとつながった研究班の大学病院での検査の結果、「子宮頸がんワクチン接種による副反応」と診断されました。先生は「残念ながら、今のところ治療法は確立されていません。しかし、僕は必ず治ると信じています。長い闘いになると思いますが一緒に頑張りましょう。」と言われました。先生の力強い言葉と診断名がわかって安心したのと、娘の身体に起こった病にどう向き合っていくのか、これからの生活のことを考えたら不安で押しつぶされそうでした。

 

地元の支える会の活動により島外県外への受診の為の渡航費宿泊費は自治体から一部助成してもらえることになり、費用に対する不安は少し解消されましたが、娘の体調は10年たった今でも多岐にわたる症状に苦しみ続けており、筋力低下が著しく、人の手と車いすを必要とする日常生活を送っています。現在も2か月に1度のペースで県外の病院へ通院と入院を繰り返している状況です。

 

国と製薬会社はワクチンによる副反応被害を認め、原因究明と治療法の確立を早急に進めてほしい。被害に遭った娘たちを苦痛から解放させて、元の元気な体に戻してほしいと強く願っています。

 

長女

先ほど長女と次女がワクチンを接種したと申し上げましたが、その長女も残念なことに被害に遭ってしまいました。

長女は親元を離れ大学に進学しましたが、在学中何度も倒れ救急車で病院搬送されることもありました。沖縄本島の大学病院(琉大附属病院神経内科、脳神経外科)での検査の結果、脳血管腫がみつかり、そこから出血しているとのことでした。「次に大きな出血が起きた場合、その時は大変危険ですので注意してください。」と厳しい現実を突き付けられました。遅延して副反応がでたケースでしたが接種後時間が経っていることから、子宮頸がんワクチン副反応疑いとしてはグレーゾーンという診断でした。一方で私は娘が2人も副反応被害に遭ってしまったというショックからパニック症状に陥り、精神安定剤が手放せない状態になりました。しかし、一番苦しいのは娘たちで、彼女たちをもとの身体に戻すために頑張ろうと何度も自分に言い聞かせて自身を奮い立たせました。

 

長女は大学3年前期で自主退学し、地元に戻り自宅療養後、現在は体調をみながら小学校で図書室の先生として働いています。毎日仕事から帰って来る娘に「今日も無事でいてくれてありがとう。」と感謝して抱きしめる日々を送っています。

 

三女

三女の娘は県外の大学進学予定でしたが、家族の負担を軽くしたいという想いから、自宅で学べる通信制大学に進路を変更しました。三女本人は「私がそうしたいと自分で決めたことだから、心配しないで。私もお姉ちゃんの介護を頑張るから、今は家族みんなで頑張ろう。」と心強い言葉をもらいました。

 

私たちは、これまで家族、友人、職場の方々、ここにいらっしゃる支援してくださる皆さんに支えていただいて精神面でも大変助けられました。

皆さんの暖かい支援は大変心強く、私たちの頑張れる源になっています。どうぞ今後とも応援をよろしくお願いいたします。

 

本日は話を聞いてくださり、ありがとうございました。

 

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2021/9/24 通信連載特集「原告からの手紙」収録

九州訴訟原告番号 10番さん 原告からの手紙  

 

HPVワクチン九州訴訟原告番号10番です。現在21歳で長崎県に住んでいます。

 

初めに、大分支援の会が設立されたと聞いた時は非常に励まされました。日頃からご支援いただき、ありがとうございます。そして初めましての皆さん、この様な昨今の情勢にも関わらず関心を寄せていただきありがとうございます。拙い文章ではありますが、私の話に少々お時間を頂ければ幸いです。

 

中学1年生(12歳)の時に接種しました。当時は白衣で薬を調剤する薬剤師にあこがれていて、中高一貫校に入学したばかりの頃でした。3回とも接種を受け、頭痛、倦怠感、接種部位の腫れ及び痛み、失神、手の硬直など様々な症状が出現していましたが、ワクチンが原因だと思ってもいませんでした。

 

この症状の原因を特定するために3年間数えきれないほどの病院を受診しました。原因は分からず、精神的なものではとの話を受け、心療内科も受診しました。様々なアプローチを受けて、自分のことも洗いざらい話して体調がよくなることを願ってやみませんでしたが、心の持ちようはよくなる一方で反比例するように体調は悪化。羞明感や脱力、不随意運動も出現するようになり、精神的なものではとても説明がつかないのではないかと思いました。

 

そして、この頃から自分の病態にも、医療の在り方にも疑問を呈するようになりました。ただ形式的に話を聞く、治療をする、薬品を処方する、そしてわからなければ精神的なものと放り投げる。そのような機械的な医療ではなく、患者に寄り添い適切な医療を提供できる医師が増えないといけない。そう思い夢は薬剤師から医師に変わっていました。

 

それから自分の得体のしれない症状におびえながらも耐え忍んでいたころ、報道でこの病気について知りました。それから協力医療機関に受診するも原因は違うといわれ、指定されたリハビリを受けるも改善はありませんでした。

 

そして授業中に突然出てきた発作。ただ平凡な古典の時間の最中、息が苦しいな、頭がぐわぐわする。そこから体の力が抜けているのに鉛のように重くて、声を出したいのに苦しくて、痛くて声も出なくて、涙も唾液も鼻水も止まらなくて、助けを求めようとした隣の席の友達はおびえていて。先生は気づかなくて。しかし、救急搬送された先の医師はこう言いました。「お母さんの気を引きたくてやっているんだよね。幼児と一緒だよ。」 その先生は神経内科の医師です。精神科ではありません。

 

そして体調が落ち着いて後日登校すると学校の先生たちの対応は一変しました。学校は高校1年生で理解を得ることができずに退学しました。現実に打ちのめされて、初めて自分の抱いた夢を後悔しました。

 

それから幸い、現在対応してくださっている医療機関に出会うことができました。治療のかいもあり、寝たきりから歩行ができるまで回復しました。それでも一番酷い時は親もわからない、自分の名前もひらがなも書けない、自分で何もできない状態だったそうです。それでも病院の先生、看護師さん、リハビリの先生、そして家族、沢山の方々のサポートの元、受験勉強ができるまでになりました。その後、さらに1年半リハビリを重ね、高卒認定試験も合格しました。先生方を見てやっぱり医師になりたい。いつかは自分が自己免疫疾患、そしてこの病気の研究に携われるようになりたい、そう思い再び医学部合格を目指していました。

 

しかし一昨年から再び悪化しました。生理の不調から始まりました。出血のある2週間前から生理2日目のような生理痛が止まらず、痛くて座ることも立つこともままならない。その状態がしばらく続き、昨年には昼寝をしていて数年ぶりにアラームが鳴っても起きない。誰がたたき起こしても1時間起きない。そして、起きたら右腕に力が入らなくてスプーンも使うことができなくなりました。

 

それからさらに悪化して歩行困難、さらには全身の筋肉に力が入って固くなり痛みを伴う筋緊張、その筋緊張により関節の可動域は狭くなり、右足に激痛がでて治まったと思えば感覚はなくなり指の関節は曲がったまま動かなくなりました。さらにはその筋緊張がさらに悪化して全身が弓なりになり呼吸困難を伴う筋緊張発作、視野が狭窄して視界の右側はほとんど見えなくなりました。起床困難も1日15時間睡眠をとらないと誰が何をしても目覚めないらしく私の1日は9時間になりました。自分で食事も排せつもままならなくなり、昔よりさらに酷い全介助になりました。

 

現在は幸い治療で状態を落ち着かせていますが、これまで通り明日がわからない毎日を過ごしています。この限りある時間で学べるものを増やしたくて、通信制大学の法学部に入学しました。社会の基盤について学んでいき、自分の苦しい経験を糧にしていきたいと思います。私は以前大学の講義で話を聞いていただいた学生さんの感想が忘れられません。

「このワクチンをSNSなどで知って副反応はないと思ってたけど、夢を諦めるような症状が嘘なわけがない」「副反応については知っていたけれど、ここまでのものだとは思わなかった」この言葉に様々な事を考え、突き動かされました。

伝える事、知ってもらうことの重要性、メディアの情報周知力の高さ、その情報を目にした時の知らない方の受け止め方。そして、本当の被害の重さについて知られていないこと。不随意運動、痛みなど典型的な症状の部分だけ知られていてもそこで情報が止まっている現実。それから私は自分に出来る事を原告の仲間たちと模索してきました。そんな中、推奨再開に向けて非常に大きな動きがありました。医療機関は機能せず、誰も認めようとしない。具体的に言えば、このワクチン由来のものではないかと疑ったら、診てくれなくなる現実。SNS上では推進する医師たちの文言があふれかえり、反ワクチンだと、ほかにはここでは書けないような汚い言葉たちが普通に並んでいる。もちろん補償も何もない。家族の仕事、生活、すべてに影響を与え苦しむ。この様な現実はきっとほとんどの方は知りません。

 

しかし、あのリーフレットのような周知をされたら、打たないという選択はできるのだろうか。もし副反応が出たら、最初から心身の反応として対応されるのではないか。その患者さんはさらに苦しい状況にならないだろうか。

 

こんな昨今だからこそ、私のほんの1部分ではありますが一人の人生の重さを知ってもらいたく、この内容を書きました。こんな自分の症状を重苦しく話すのは苦手です。苦しくてたまらなくて泣きじゃくりながら書きました。声に出さず、文字として伝えられるこの場で書かせていただきました。

 私は昨今の副反応をないものとして、または当たり前と軽はずみに解釈されている空気に非常に恐怖を覚えています。そして重いものになると誰も触れようとしていないのではないかと懸念しています。どんなに少数でもその少数にはそれぞれの人生があることを、自分であればその先にこれからの自分の人生があることをどうか忘れないでください。

 

 いつも支えてくださっている弁護団の先生方、支援者の皆さん、原告の皆さん、そのご家族、いつもありがとうございます。私はいつも傍聴の場で皆さんにお会いすることでたくさんの勇気をいただいていました。現在その場が限られていることに非常に残念に思いながらこの1年を過ごしました。オンライン上でも、さらに皆さんとの交流の場を持つことができればうれしいです。

 

そして、私のできる事は伝える事だけだと思っています。できる事をこれからも頑張っていきます。皆さんにこれからもお力添えいただけると嬉しいです。

 

 


※HPVワクチン薬害訴訟を支える会・大分のご好意により通信等で発信されている内容を掲載させていただいております。